妻がこの世にいた証し
今でもはっきりと覚えている。2015年8月31日の夜、祭壇の前に布団を2つ並べて、部屋の照明を消したときだった。中学1年生の娘が妻の遺影を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「ママはどうして、私を産んだのかなあ。もし、私を産まなかったら、今も生きていたかもしれないよね」
一瞬、戸惑ったが、娘に伝えなければならないと思った。
妻が娘をどれだけ愛し、生まれてきてくれたことに感謝していたか、ということを。
そのことを妻は自身のブログに綴っていた。
生まれてくることができない人もいる(2007年12月8日)
久しぶりに行ったマクロビオティックの料理教室で、顔見知りの女の子に声をかけた。
気軽に。
なぜなら、2カ月前、彼女のお腹は大きく幸せなくらいにふくらんでいて。
笑顔も素敵で。
「11月が予定日なんです」と、うれしそうに話していて。
彼女のお腹がすっきりしていたもんだから、本当に、気軽に声をかけた。
「あ!おめでとうございます!産まれたんですね!^^!」
でも、・・・
「じつは・・・だめだったんです。へその尾がねじれてしまって、心臓が止まっていたんです。死んじゃってたんです。そんなことって、あるんですね。前日まで元気にお腹の中で動いていたのに・・・」
すぐに、「え・・・ごめんなさい」と。
それ以上の言葉が出てこなかった。
本当に。どんな言葉も陳腐で。
気軽に声をかけてしまった自分をパンチしたくなった。
子どもを失う悲しみは、おそらく、この世の悲しみの中で最大ではないだろうかと思う。
ムスメがいなくなることを考えたら、自分が先に死んだほうがましだ。
自分の命と引き換えてもいい。
がんがいっぱい転移してもいいや。
自分の命がすぐに消えてしまったとしても、ムスメには、私より長く生きていてほしい。
親って、そんなものなんだと。
子どもを持って、初めてわかった。
7年前、手術がとても恐ろしくなって、2日前にオペを拒否したとき、私の父親は言った。
「何ば言いよるか。親より先に死ぬことだけは許されん」
頑固な私が、意見を曲げることがないことを知っていたから、
それだけ告げて帰ってしまったけれど。
その気持ちが、今ならわかる。
でもその後、無事に?手術をし、あり得ないだろうと思っていた妊娠をしたとき、
父は言った。
「お前は死んでもいいから、とにかく、産め」と。(多分、「死ぬ気で産め」って言いたかったはずなんだけど・・)
そりゃないよ、とーさん、と、その時は思ったけれど。
迷いながらもムスメを産んだことを、今は本当によかったと思っている。
大プッシュしてくれた、今は亡きとーさんに、心から感謝している。
とーさんは、わかっていたのだ。
こどもが、私を助けてくれるということを。
とーさんのあの時の一言がなかったら、
私は、再発を恐れるがゆえに、
自分の命を守ることだけのために、
ムスメがこの世に来ようとしてくれていたことを阻止したかもしれないからだ。
ムスメは、病を得た私を癒やすために、この世に来てくれた。
ムスメがいなかったら、多分、
きつくてきつくて、もう、いいや、死んでも。
と、とっくの昔に自分の命をあきらめていただろう。
どんなにキツい薬も、どんなに苦しい状況になっても、ここまでやって来られたのは、「ムスメのために、何が何でも生きんといかん」という気持ちが働いたからだ。
抗がん剤をやっている時は、そんな時期が必ず訪れる。
孤独で、苦しくて。
生きているのが、つらくなる時期が。
死んだ方が楽なのに、と思う時期が。
でも、ムスメがいたから、乗り越えてくることができたのだ。
産まれて来ることができない人がいる。
280日お母さんのお腹の中にいるところ、
279日で、その命の火を絶やす人がいる。
その人たちは、何かの使命を持って、天国に戻り、また命を得にやってきてくれるだろう。
私は、そう信じている。
そして、この世に命を得た私たちは、
その火を、自ら絶つことなく、精一杯生きなければいけない。
産まれてくることができない人たちの分まで。
しっかりと、地に足をつけて。
歩まなければならない。
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