小欲知足
その日は、娘の入社式。親も同伴だった。
朝、僕はクローゼットから古びたネクタイを取り出した。ネクタイは、それしか考えられなかった。
妻が亡くなる半年ほど前のこと。
「しんちゃん、ネクタイぐらいは良いものをつけないとね」
それまで、高級ブランド品には全く興味を示さなかった妻が、驚くほど高額なネクタイを僕にプレゼントしてくれた。そんな妻を見たのは初めてだった。
妻は「小欲知足」な生き方を信念としていた。身につけるものにお金をかけることはなかった。服装はいつも、簡素だった。
「もっと、おしゃれしなよ。服、買ってあげようか」
僕が提案すると、彼女はこう答えた。
「そんな贅沢しなくていいよ。Tシャツとジーンズがあれば、私は十分。服よりも鍋を買って」。
あれから17年。そのネクタイは、縁のところどころが擦れてしまって、見た目はボロボロ。だが、捨てられなかった。
入社式に向かうバスの中。
晴れやかな日であるにもかかわらず、古びたネクタイをつけてきた理由を娘に話した。
娘は「ママが喜んでるよ」と、理解してくれた。
妻からもらった最後のプレゼント。
どんなにボロボロになっても、
多分、一生捨てられない。
あのとき、妻は自分の命が長くないことを予見していたのだろうか。
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